個人主義と日本    2000年(平成12年)6月18日

 米国へきてあらためて感じさせられたことは,良い意味でも悪い意味でも個人主義が確立している,ということだ。その個人主義は家庭内でも見られるのだが,成人になって家を出ていった子供が親の面倒を見る必要がない,ということにはさすがに驚いた。これは,TIMEを読んでいてわかったことだ。親を養護老人施設に送るとか,子供が独立した後は独りで暮らすことになるとか,書かれているのである(もちろん,そうでない家族もあるかもしれない)。

 個人主義とは本当に自由だが,自由の代償としてその自由を満喫する個人がすべての責任を負わなければならない。老後の問題にしても「個人主義の国だから」ということなのだろうが,だとしたら,個人主義とは寂しいものだ。自分が手に塩をかけて育てた子供からも相手にされないのだから(そうされることも期待していない?)。逆に言うと,それに耐え,独りで生きていけるだけの強い哲学と精神(自立心)が要求されるのである。これがまさしく,個人主義の国,米国の姿だ。個人一人一人が独立しており,それぞれが各自の憲法(哲学・原則)を持って生きているのである。

 日本人が米国人の真似をできるのか。そこまで強い個人を確立している人が1億人2千万人の中に何人いるのであろうか(少なくとも私はその範疇までは達していないことが,ここへ来てよくわかった*)。そして,日本人がそれを真似る必要もあるのだろうか?

 日本人は日本人なりの慣習や考え方がある。それは米国の個人主義とは異なるものであったとしても,何も劣等感を感じる必要はないし,それを廃止することもない。例えば,子が老いた親の面倒を見る。それは,米国では見られない,日本をはじめ東洋各国で見られる素晴らしい伝統ないか。ものは循環する,という東洋思想に基づいた,そして自然の理にかなった慣習である。国内では介護保険法案でもめていたが,老後の世話をどのようにすればよいかということを法制化すること自体がナンセンスだ(問題を単純化しすぎ,という批判はあるだろうが)。それは日本人の遺伝子に深く刻み込まれたものなのである。

 個人主義,それも一つの考え方だし,その考え方の存在を否定はしない。だが,日本人には(特に琉球の人には)それは向かないだろうし,それを身につけることも不可能なように思う(その理由の一つは,ユダヤ教,キリスト教という一神教(絶対神)があるのだが,これに触れると長くなるので,ここでは割愛)。各個人が哲学や原則を持たないまま,そして自由と表裏一体となっている個人が追わねばならない強い義務と責任を理解せぬままに,日本人が個人主義を信奉するのであれば,日本という国は個人の無責任な自由が放置された国家となり,社会は無秩序化し,国は必ずや滅びるであろう。

 *本当に私が気づいたことは,彼らが持つような哲学・原則は,日本人としても必ず持たねばならない,ということだ。それがなければ,彼らと戦えない。彼らに太刀打ちするためには,日本人としての哲学・原則を身につけ,それを基に理論武装しなければ,相手から見下されるだけである。そのためには,日本と日本語を学び(自分を知る:自分のアイデンティティを確立する),英語を学び(相手を知る:そこに流れる発想を学ぶ・・・石のロジック,a straight thinking),ディベートを学ぶことだと,今心の底から痛感している。しかしそれだけでは,戦うだけで終わってしまい,ただ単に相手に勝った,相手に負けたの世界に留まる。本当に必要なのはその戦いの後。ディベートという戦いを通して新しく創造されたものを学ぶことだ。負けて勝つこともあるのだ。

 短い文章の中で,この問題を語ることは非常に困難であり,誤解を伴う表現を含んでいるやかもしれず,それは御容赦いただきたい。